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「自分にとって教養とは何か」を考えるきっかけとなり、自分自身にとっての思慮深さを見つめ直す機会が得られる一冊

  • 何のための「教養」か
  • by
  • 出版社:筑摩書房
何のための「教養」か
■この本どんな本?
「教養とは何か」、「教養を身につけるということはどういうことか」という問いに著者自身のこれまでの経験を通じて真摯に答えようとする貴重な一冊。人生において逆風のなかにあるとき、頼りになる力を「底力」と呼ぶならば、それがまさに教養であり、その底力を生かしてこそ、困難を乗り越えられる「思慮深さ」が得られると著者は説く。本書の後半では教養はひけらかすだけの単なる知識ではなく、実践へと直結させるための(著者自身の人生経験を踏まえた上での)方法が述べられている。

■この本の内容
哲学者である著者は私たちの人生における「選択」を次のように定義する。
わたしたち人間が生きるということは、この地球上に命を与えられ、その命を維持していくと言うことを意味している。生まれるということは、命を与えられるということである。与えられるということは受け身である。わたしたちは自らの誕生を選択することはできないからだである。
他方、わたしたちは命をつなぐために、たくさんのことを選択する。「選択する」ということは、「選択肢をもつ」ということ、さらに、「選択することができる」ということも意味している。複数の選択肢のなかから選択することができるということは、選択の自由をもつということである。選択の自由があればこそ、わたしたちは、複数の選択肢から自らの意思でどれか一つを選ぶことができる。選択の存在こそ人間が自由であることの根幹に位置しているのである。
ただ、選択が望みの結果をもたらすかどうかは、選択の時点で分かっているわけではない。わたしたちは選択を誤まることもある。この場合の「誤まる」は、数学の解答を誤まるという意味ではない。正しい答えを出せなかったということではない。選択には、「よりよい選択」と「より悪い選択」、「どちらともつかない選択」がある。よりよい選択とは、私たちの願望の実現をもたらす選択、いわば幸福な状況をもたらす選択であり、そうでない選択が誤った選択、不幸をもたらす選択が悪い選択である。さらに、よい選択をしたと思っても、選択の状況が変化するなかで不運が生じることもある。順調に進んでいた仕事が突然の自身で行き詰まってしまうこともある。わたしたちは、こういう状況が運が悪いとか、不運だとかいう。選択を誤まることで、あるいは、不運に見舞われることで、わたしたちは困難な状況に陥る。困難な状況に陥ってしまうことの分岐点となった選択のことを「選択を間違った」とか「選択が正しくなかった」、あるいは「選択はよかったが、運が悪かった」というのである。たしかに、「誤った選択」「正しくなかった選択」は回避したい。不運な出来事に出会うことも喜ばしいことではない。が、そういう選択をすること、そのような状況を生きることができることもまた、人間が自由であるということに含まれている。
著者は命のように「与えられているもの」を「所与」と呼び、さらに「選択」する自由があり、「所与」と「選択」とが人間が存在する根本的な条件であると考えている。そして人生には更に広大な領域が広がっておりこれを「遭遇」という領域であると述べている。「遭遇」とはなにか---。例えば複数の人たちが同じ風景、同じ時間を共有していたとしても個々人が見ている風景は視点が異るためそれぞれ違う風景を見ているという。空間をどのように捉えるかが異るから、風景のなかで行おうとする選択も異ることになる。それでは教養ある人たちは「思慮深さ」をいかに身につけるのだろうか。それを読み解く鍵になるのが次の文章になるのではないだろうか。
要するに「高度な教養」とは飾りとしての教養ではなく、また、制度的に専門の下位に従属する教養でもなく、現代社会が直面する課題を克服するための思考力である。このような「力」としての教養の必要性が再び叫ばれるきっかけとなったのは、二〇一一年の東日本大震災という未曾有の自然災害とそれによって引き起こされた東京電力福島第一原子力発電所の出来事である。わたしが原子力発電所の爆発を「出来事」というのは、たんに「事故」と表現できないものだからである。事故を防ぐことのできなかった技術者や研究者たちは、「想定外」ということばや「安全神話」ということばを語った。たしかに、タテワリ的な学問やタコツボ的研究では、その視野の狭さから「想定外」ということばを使う、というのは想像できた。しかし、「安全神話」ということばを科学者たちが語ることにわたしは心底驚いた。なぜなら、科学技術者は、自分たちの科学的言説を「神話」などということばで語ってはならないと信じている人びとだと思っていたからである。かれらは、かれらのもっていた科学技術が自然災害にも十分対応できると科学的に信じていたにもかかわらず、その信念が崩れたときに、それを「自分たちの科学的認識が誤っていた」とか「認識が不十分であった」といわずに、「安全神話に陥っていた」と語ったのである。科学的想定を超える事態が生じたとき、かれらが「神話」ということばを使ったことがわたしの耳には異様に聞こえたのであった。そこには、科学は誤らず、誤っていたとすれば、科学ではなく神話であるという、科学者たちの科学観があった。
と辛辣に述べ「思慮深さ」の欠如を指摘する。「思慮深さ」を身につけるには自身の専門外の人達とのプロジェクトに積極的に参加し、社会的合意形成にかかわるプロジェクトマネジメントを経験するのが役に立つというのが著者の主張である。

■この本をおすすめしたい人たち
リベラルアーツに興味がある人、大学生(主に1〜2年生)には是非、読んでほしい。専門分野と専門分野の間に存在する不明瞭な部分にこそ「思慮深さ」が必要であることを学べると思う。

⬛ 著者紹介 (本書より抜粋)
1951年群馬県生まれ。哲学者。一般社団法人コンセンサス・コーディネーターズ代表理事。東京大学文学部哲学学科卒業、同大学院博士課程終了。東京工業大学大学院教授、同リベラルアーツセンター長を経て東京女子大学教授、東京工業大学名誉教授。
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  • 掲載日:2019/09/03
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